552885 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

文の文

文の文

社交的つながり・文の文1







★ いささかお疲れ。  2006年01月17日

その昔、旅の途中で、遠視気味の友人が車窓からの景色を見ながら、「いやおうなしに飛び込んでくる景色がどれもくっきりみえてしまうから、すごく目が疲れてしまう」と言ったことがあった。

当時近視気味だったわたしにはピンとこない話ではあったのだが、その「飛び込んでくる景色を見てしまう」と言う感じがミクシイに来てからの自分に近いかもしれないなと思っている。

ソーシャルというのは社交的なという意味だから、地に満ちた人間が繋がっていくのだから、その数は倍々ゲームで増えていくのが道理だ。

自分もその地続きになってみて数日が経ち、目の前に広がっているそのつながりの数にいささか疲れてきている。

というのも、わたし自身がついついひとのありようにこころ添わせてみたいと思ってしまう癖がある人間だからだろうと思う。

自分計りをして自分の円を描いてその重なりでひとと繋がっていくのだなと思い、そんなふうに自分とミクシイをつなげてみると、同じように実に多くのひとが自分なりの円を描いていた。

そのそばで、それぞれの円の重なりを見つめているだけで、ため息がでてしまっていた。それは、図書館の本を全部読むことはできないと悟った日のため息に似ている。

昨日のこと「君はどれくらいのコミュニティに入るつもりなの?」と息子に聞いてみた。

息子はこともなげに「自分の手に負えるくらい」と答えた。

そう言われて、ああ、そうか、それも自分計りなのだなと気づいた。

こいつは知らん顔して人生の奥義を極めているようなところがあるなと思うのは親馬鹿だろうけど、その言葉には愁眉を開かれた。

老い始めた人間は掛け値なしの自分の姿をはかりそこなう。能力の衰えに気づかないふりをしてしまう。てらいなく自分の手に負えるのはこれだけなの、といえなくなってしまう。

それも一種の老化なのかもしれない。

そうだ、へなちょこ51歳にはそれなりのキャパしかないのだ。自分の時間は無限にはないのだと思い知らされてもいる。

自分を限ることはしないが、無理もするまいと思っていたりする。

 
★諸君はすばらしい  2006年03月21日

野球DNAという言葉があるらしい。

かつて野球少年だったおじさんの胸には、その当時と寸分も変わらない野球への情熱があり、野球から離れられない。そしてそれがわが子や地域の子、教え子へ繋がっていく。

何日か前も夜の公園でトスバッティングのタイミングを取る練習をする親子を見かけた。

とうさんが見えないボールをふいっと投げ上げる。息子がフルスィングする。とうさんはそのタイミングをチェックする。どちらも真剣だ。水銀灯の下で息子の影が力強くうなずいていた。

WBC優勝後のお祝いの挨拶で、王監督が「諸君はすばらしい」と言った。王さんが言ったからなのか、しみる言葉だった。

この言葉、どこでも久しく聞かなったように思う。
「諸君はすばらしい」
大人の言葉だなと思う。成熟した大人の言葉。

その後のシャンペンシャワーのなかでイチローが
「おまえら先輩を敬えー」と怒鳴った。
あのイチローが。

人間関係に、込み入った感情のあやとりばかりが多くなってきているように感じてしまうこの頃、野球DNAを持つ男たちは、ごくごくシンプルにたいせつなことをきっぱりした言葉にしてみせてくれる。

むろん勝ったからなのだろうが・・・。


★ 小説新潮  2006年03月28日


小説新潮という本をはじめて買った。読書家のひとには笑われてしまうなあ。小説書くひとにもだな。

この雑誌の感触は懐かしい。実家の父親がこういうのをよく買っていた。オール読み物とかも好きだった。ずらりとバックナンバーがそろっていた。
なにしろあのひとは物書きになりたい農夫だったから。

前衛的な字で毎日日記をつけていた。小学校のとき、入院したわたしに長い長い手紙をくれた。それは父の幼少時の苦難を綴ってあったらしいのだが、小学4年生には判読できない古文書のようだった。

話がそれてしまった。

なにが目的で買ったかというと、今月から「談志一代記」という聞き書きがはじまったからだ。聞き手は吉川潮さんだ。

先日歌舞伎座でとなりに座ったおじさんが落語ファンで、寄席の話から、かつての名人の話やらいろいろしてくれてこの連載の話も教えてもらった。

このおじさん吉川さんとは知りあいのような口ぶりだった。
興味の糸はこんなふうに繋がっていくんだなと実感する。

談志師匠は昭和10年12月2日生まれの70歳だという。
去年のお正月、志の輔の舞台でナマ談志を見たが、決してその年には見えなかった。

東京小石川白山生まれで蒲田や浦賀、下丸子と引っ越し6歳で鵜の木に落ち着いた。字が読めるようになると貸本を読み漁り、講談から落語へいたる。一字一句記憶せんばかりに読む。
戦争体験を経て、小学5年生から寄席へ通い始める。

「あたしは体力がないんで、(水泳では)どうやっても最後は体力のあるやつに勝てない。自分でもどうしようもない壁がある。このことは考え方、生き方を冷笑的にし、皮肉にし、物事を裏から見るようにしますから、落語家という商売にはよかったのかもしれナイネ」

そんな素直な言葉がならんでいる。

そしてこの言葉がいい。

「寄席のあらゆる要素に感動していました。寄席の美学に心酔していました。色物も含めたあらゆる芸人たち、落語家の紋付に角帯を締めた姿、講座の座布団、橘右近さんの書くビラ字・・・ビラをこっそり千切って教科書に貼ったものです。ついには呼び込みをしている汚いおじいさんまで好きになったもんね。あと、町を歩いているひとを『お、こっちは小三治に似ている。あっちは右女助だな』なんて考えてはうれしくなったり、我ながら気狂いじみてると思いました。
ずっとずっと寄席に居たい、寄席にいるためには落語家になるしかない、その思いだけが強くなっていきました。十四の頃には落語家になろうと決めてましたよ」

そして小さん師匠の門を叩く。
連載はまだまだ続く。

 
@わたしの両親はふたりとも他界しております。
末っ子のわたしがものごころついた頃には
ふたりとももうずいぶんくたびれた大人でした。
だからなかなかふたりに若い日々があったことに
思いがいたりませんでした。

どのひとにも若き日はあって
なにかしら夢見て生きていたのだと
この年になって実感します


★ おそれいる 2006年04月02日

どうやらカラスは巣作りの季節らしい。
我が家はベランダに朝日が当たる部屋なのだが
先日ふっと気づくと部屋に鳥の影が落ちていた。
影の形からするとハシブトガラスらしい。
これがひょいひょいとベランダを移動している。
見に行くとこちらの気配を察して飛び去った。

しかし私は見た。
あいつは針金ハンガーを咥えていた。
我が家の角ハンガーはステンレス製なので
そのきらきらに惹かれてやってきて
角ハンガーは運べないので針金ハンガーを持ち去ったのだろう。

その日は乾かなかったTシャツが
針金ハンガーを通して干し残してあったのだが、
あいつはその針金ハンガーを持ち去ったのだ。

つまり、干してあるハンガーからTシャツをはずしてだ。
ええーっ!と驚くが
さらに芸が細かいことにはそのはずしたTシャツは
竿にかけてあったのだ。2枚も。

いや、これはなにかの間違いかもしれんという思いもあった。
で、試してみた。
干すのはブラスティックのバンガーにして
ベランダの手すりに針金ハンガーを5本並べておいた。

これには全く反応しなかった。
わなだと感じたのかもしれない。

それで今日は
Tシャツ一枚だけ針金ハンガーに通し
(ほかはプラスティックで)
一本だけベランダの手すりにおいた。

気づくと手すりのハンガーはなくなり
針金ハンガーを通したTシャツは
やっぱりハンガーを抜かれて竿にのっていた。
それがいかにも自然にふわりとおいてあるのだ。

まことにまことに恐れ入る。

カラスの惑星のことなど考えてみる。

★ おたから?  2006年04月05日


スライド式の本棚のやりくりをしていてこんなものを見つけた。そうそうこれがあった。

へちま☆大長老さんの日記(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=108483988&owner_id=119801)を見て思い出したのだ。

ごらんのとおりの年季もの。
我が家の迷画伯たちの落書きも満載だ。

開いてみれば、岡本太郎展とある。
昭和56年7月25日―9月15日。
場所は山梨県立美術館。
その当時は山梨県人だった。
まだヨチヨチ歩きの息子2をバギーに乗せて見に行った。
庭にもオブジェがいろいろあって
角の生えた鐘があってハンマーで叩いたような記憶がある。

そのときご本人の講演もあって、ナマタロウに会ったのだった。
年表ではそのとき70歳だったとある。
そんなふうには見えなかった。
元気なひとだなあと思っていた。

そうそうサインもある。
サインを収集する趣味はないのだけれど
そうはいっても、我が家には
萩尾望都さんと谷川俊太郎さんのサインがある。
その三人をいっしょに並べたら
きっと愉快な気分になるに違いない。


社交的つながり・文の文2へつづく




© Rakuten Group, Inc.